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第69回定期演奏会 プログラム 曲目紹介 
― 19世紀の裏の名曲と表の名曲を ―

 今回お届けする3曲の作曲者、フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847年、プロイセン王国出身(現在のドイツ))、ヨハネス・ブラームス(1833~1897年、都市国家ハンブルク出身(現在のドイツ))、アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904年、ボヘミア出身(現在のチェコ))はいずれも19世紀のクラシック音楽の顔ともいうべき存在です。

 この中ではメンデルスゾーンが一つ上の世代で、交響曲「スコットランド」「イタリア」、ヴァイオリン協奏曲等多くの名曲を残しただけでなく、ドイツひいてはクラシック音楽の発展に大きな貢献を果たしています。ブラームスはドヴォルザークのやや先輩ですが、恩人でもあり、また二人は深いきずなで結ばれた同志でもありました。ウィーンで活躍していたブラームスは、ボヘミア出身のドヴォルザークの才能を見出し、楽譜出版社に紹介する等積極的な支援を惜しまず、ドヴォルザークもブラームスの音楽手法から多くを学んでいます。

 メンデルスゾーンとブラームスをつなぐ接点はありませんが、両者の間にロベルト・シューマン(1810~1856年)を介在させるとわかりやすくなります。(シューマンの作品は今回演奏しませんが)メンデルスゾーンとシューマンは同世代でもあり、音楽評論の分野を切り開いたシューマンはメンデルスゾーンを高く評価し、メンデルスゾーンもシューマン夫妻(妻は有名なピアニストの

クララ・シューマン)ともども親交を深めた間柄でした。

 さてそのシューマンは、1853年に自身が主宰する音楽評論誌でブラームスを世に紹介し絶賛して以降、ブラームスの作品出版のための労を取り積極的に後押ししました。(これを後年ブラームスがドヴォルザーク対し行ったわけです)そしてシューマンが1856年に亡くなって以降も、ブラームスとクララとの間には1896年彼女が亡くなるまで終生の友としての関係が続きました。実のところ、2人の関係は単なる友情を超えたものがあり、生前からいろいろな憶測が飛び交うことになりました。明らかなのは、ブラームスは作曲に際し、クララに意見を求める等大いに影響を受けたということです。そして今回演奏する交響曲第1番も、ブラームスのクララに対する思いが込められているというのが有力説です。(後記3参照)

1. メンデルスゾーン : 序曲「リュイ・ブラース」

 フランスの文豪ヴィクトール・ユーゴーは演劇も手掛けており、1839年に発表した戯曲「リュイ・ブラース」(Ruy Blas)は代表作の一つで、16世紀のスペイン王室を舞台に、王妃と下層階級の青年リュイ・ブラースの恋の物語を中心

に描かれています。

 作曲の経緯はちょっと複雑で、ライプツィヒの「劇場年金基金」が戯曲につける音楽としてメンデルスゾーンに依頼したのですが、元となる戯曲リュイ・ブラース自体が好みに合わなかったとか、依頼者側に失礼な態度があって気分を害したとかのためか、依頼後何と数日でさらりと仕上げてしまい、また曲自体、(オペラの序曲などとは違って)戯曲の内容を描写しているわけではありません。そのためでしょうか、あまり演奏されることのない曲ですが、軽やかな舞曲風のメロディがなかなかおしゃれです。この隠れた、いわば裏の名曲をまず初めにお楽しみください。

2. ドヴォルザーク : 交響詩「英雄の歌」

 ドヴォルザークは、交響曲「新世界より」を始めとして幅広いジャンルに渡り多くの名曲を残しましたが、最後の管弦楽作品となったのが交響詩「英雄の歌」です。1897年、ドヴォルザークは57歳で、最後を締めくくる名曲と言いたいところですが、実は数多い管弦楽曲の中では、最も知名度の低い作品の一つです。ドヴォルザークの他の交響詩や序曲は、すべて同郷のボヘミア人による詩作を素材としていますが、この曲だけは「英雄の歌」という表題のみ。この「英雄」がだれを指すのかは明確にされていません。

 曲の進行としては、冒頭の低弦(ヴィオラ、チェロ、コントラバス)による動機が、曲全体を通してさまざまな形に変形されて登場し、ドヴォルザークらしい甘美なメロディ群と相まって、大変緻密な楽曲構成となっています。1曲目と同様、これまた裏の名曲と言えましょう。晩年に近づいた作曲家が自らを英雄に見立て、その栄光に至る道を振り返った曲だという読み方はいかがでしょうか。

3. ブラームス : 交響曲第1番ハ短調

 後半にお届けするこの曲は、ベートーヴェン以降に現れた最高の交響曲として、ブラームスがその発表前から期待され、現に音楽史において燦然と輝く名曲です。完成まで20年以上要したというのは有名な話ですが、ブラームスは作曲のスケッチや未完作品等を破棄してしまうので、交響曲第1番についても作曲経緯は明らかではありません。ただ1855年(ブラームス22歳)の時点では着手しており、1862年にクララ・シューマンの前で1楽章をピアノで弾いて聴かせたことなどは判っています。そして師匠たるシューマンや出版社が大きな期待を寄せ続けたのは事実ですが、それでも全曲が完成したのは1876年、ブラームスは既に43歳でした。
 

 1楽章の序奏は、ティンパニの連打(全部で52回!)とともに荘重で息の長い旋律が非常に印象的です。ただクララが1862年にピアノ演奏で聴いたのは主題のAllegroの部分(開始後約3分)からでした。つまり現在聴ける冒頭の序奏は後に追加されたわけで、それがこの曲の完成度を飛躍的に上げたことになります。
 

 2楽章は1楽章のハ短調(ドで始まる)から3度上がったホ長調(ミで始まる)。穏やかに流れた後に最後には(交響曲ではちょっと珍しい)ヴァイオリンソロが入り、ここが聴きどころです。
 

 3楽章はさらに3度上の変イ長調(ラ♭で始まる)。通常の音楽は(クラシック以外でも)4小節単位でメロディが進行するのが主流ですが、ここでは5小節(2拍子)×2=10小節のメロディが主題です。(聴きながら数えてみてください)
 

 4楽章はさらに3度上のハ短調(ついでハ長調)に戻ります。(つまり1回転したわけです)この楽章は聴きどころ満載で、冒頭Adagioは1楽章に増して重苦しく始まりますが、Piu Andante(開始後約3分)から雰囲気が一転、朗々とホルンが響き渡ります。これは、ブラームスが1868年のクララ・シューマンの誕生日(49歳)に寄せて、滞在先のスイスから送ったお祝いのメッセージ

に付したメロディがそのまま使われたとされています。ブラームスがクララに対し、特別な思いを込めて作曲した交響曲だとされる由縁です。なお手許のプログラムの表紙デザインは、これに着想を得たものです。(ブラームスの素描は50歳代半ばの写真がベース、背景の雪山はアルプスのマッターホルンです。)
 

 そしてこの後のAllegroによる主題(開始後約6分)が、ベートーヴェン第九「歓喜の歌」に似ているとよく指摘されてきました。ブラームス自身は、これに対し「愚か者は何でも同じに聞こえるもの」とうそぶいたそうです。最後の全合奏による劇的なまとめ方は、同じハ長調で締めくくったベートーヴェン交響曲第5番(運命)をほうふつとさせます。これだけ聴きごたえのある名曲なら、どこの部分がどこを真似たとか盗用だとかいう議論にはならず、新たな価値を創造した大曲と言えましょう。

第69回定期演奏会 曲目紹介 補足
 1.3人が生涯を送った地について 

 ヨーロッパの音楽史では、ベートーヴェン(1770~1827年)が登場して以降、管弦楽や器楽のジャンルを中心にドイツ・オーストリアが特に存在感を増し、19世紀を通して音楽の中心地は、以前のイタリアやフランスでなくドイツであり、その後現代に至ると言ってよい。メンデルスゾーンやブラームスは、そんなメインストリームのまた頂点に立つ音楽家である。一方ドヴォルザークは、国レベルでは当時のオーストリアに帰属しドイツ語圏にあったが、音楽界におけるボヘミアの存在感を世に知らしめる貢献をなした。
 

 メンデルスゾーンは1809年生まれ、当時プロイセン王国の首都ベルリンの出身。(生まれはハンブルクだが、1811年フランス皇帝ナポレオンの侵攻でベルリンに逃れた。)ベルリンで育ちベルリンで活躍したが、後年活躍の場はライプツィヒ(ザクセン王国、首都はドレスデン)に移った。

ブラームスは1833年北ドイツのハンブルクで生まれ育った。ハンブルクは中世のハンザ同盟の流れを組む商業都市で、ドイツ連邦を構成する一国家としての地位が付与されていた。活躍の場はドイツの各地に広がったが、1862年に活躍の舞台をウィーンに移した。当時ハプスブルグ帝国(現在はオーストリア)の首都である。その後は生涯音楽の都ウィーンに住み、多くの音楽家とともにウィーン中央墓地に眠る。
 

 ドヴォルザークは1841年、現在のチェコの首都プラハの郊外で生まれ育った。もともとのボヘミア王国が、17世紀にハプスブルク帝国の支配下に入りドイツ語を強要された歴史がある。第一次世界大戦後の1918年チェコスロバキアとして独立、現在はチェコ共和国の一部を構成する。ドヴォルザークはボヘミアの民族色豊かな音楽を作り上げたが、系譜としてはメインストリームたるドイツ音楽の延長にある。生涯を通じてプラハを中心に活動したが、当時の新興国アメリカからの誘いで、1892年ニューヨークへ渡った。新世界交響曲は、アメリカ滞在の2年余の間に作曲されたもの。

 2.メンデルスゾーンについて 

 (1)メンデルスゾーン家について 
 

 メンデルスゾーン(Mendelssohn)という苗字はユダヤ系を想起させるもので、実際に祖父のモーゼス・メンデルスゾーンは高名なユダヤ人哲学者にしてユダヤ啓蒙運動の中心人物だった。父は家業の銀行業で成功した。(同時代の国際金融界では、同じユダヤ人であるロスチャイルド家が成功した。)一般に音楽家の伝記と言えば、貧乏な音楽家の家に生まれ、父親の音楽教育を受けながら立身出世していくイメージがあるが、メンデルスゾーンの場合は全く違う。(なお19世紀以降は一般家庭から音楽家が生まれることも普通になった。)

 当時のプロイセン王国では、ユダヤ人にも市民権が付与された(1812年のユダヤ人解放令)ものの、ユダヤ人排斥運動は頻発したようで、ベルリン在住のメンデルスゾーン家も引っ越しを余儀なくされた。また一家としてキリスト教(プロテスタント)に改宗し、姓もバルトルディ(Bartholdy)に変更した。ただ当の本人はユダヤ人であることを示すメンデルスゾーンの姓に忌避感はなく、後年有名になってからも「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ」と記載したようだ。そのため、現在でもCDジャケットや人物事典でもこのような二重姓で記載されることがある。

(2)メンデルスゾーンの貢献 
 

 ヴァイオリン協奏曲やあまりに有名な結婚行進曲(「夏の夜の夢」の9曲目)といった作曲以外に、音楽史上の大きな貢献をなしている。箇条書きにすると、
 

①過去の人とされたバッハの作品を掘り起こし、バッハ再評価の端緒となった。

→ 埋もれていた「マタイ受難曲」を再演した。
 

②世界最古と言われるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の発展に音楽監督として大いに寄与し、現在の指揮者像の原型を作った。

→ 単に拍子を取るだけでなく、音楽づくりに踏み込み、演奏会に向け団員のトレーナーとなり、楽団のマネジメントも行った。
 

③ライプツィヒ音楽院を創設し、近代的な音楽教育モデルを確立した。

→ 年のこと。ドイツ初の高等音楽教育機関であり、米国はじめ各国から留学生が集まり、ドイツの音楽的権威を高めることになった。もちろん現在も国際的な音楽・演劇教育機関として存続する。(正式名称は「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学」)

 

3.ブラームスの女性関係 

 芸能誌の扱うテーマかも知れないが、音楽のような芸術活動ではある意味切り離せないので敢えて。ブラームスは生涯独身で、そういう音楽家は結構多い。当楽団の第68回演奏会(前回)のラヴェルやムソルグスキーがそうだし、第66回演奏会のチャイコフスキーも然り。それぞれに事情があったわけだが、ブラームスの場合は恋多き人生であり、中でもクララ・シューマンとの関係は音楽史上も大変有名である。そしてクララとの関係を生涯引きずり結婚に至らなかったとも言われる。
 

 ブラームスとクララの出会いは1853年、デュッセルドルフのシューマン宅。1カ月間シューマン夫妻と音楽的交流を深め、その後夫ロベルトが自身の発刊する音楽雑誌でブラームスを絶賛し、世に出るきっかけを作った。翌年には夫ロベルトが病んで自殺未遂を起こし、その2年後に亡くなってしまうが、ブラームスは未亡人クララを懸命に支え、二人の関係は1896年クララが亡くなるまで続いた。二人のお互いへの感情は、本人でなければ決してわからないものだ。後に調べるとしても、近親者による伝記や言い伝え、そして残された手紙類ぐらいしかない。手紙も本人が破棄した場合があることも分かっている。なので、後世の音楽学者らは想像をたくましくするしかない。(*)


 なおブラームスはこの後25歳の時、ある大学教授の娘に思いを募らせ婚約にまで至るが、自ら勝手に破棄してしまい、相手にもショックを与えてしまった。またクララの三女ユーリエにもひそかに愛を感じながら表には出さず、36歳になったころ彼女が結婚したと知って大きな衝撃を受けている。さらには、50歳の時には27歳の歌手に思いを寄せたが、二人の交流は結婚には至らず。


(*)ただ戦後長くわが国の音楽評論の第一人者だった吉田秀和(1913~2012年)が、自身の見解として相当踏み込んだ説明をしたのが目を引く。

曰く「ブラームスは一生独身だったが、烈しい恋に何度も繰り返し身を焼いた」

「ブラームスの音楽にはいつも“愛の歌”や“愛への憧れ”が秘められていた」

「(1853年の初対面時)クララは34歳の匂うような女ざかり。その物腰、立居振舞、その声のすべてがブラームスにとってまぶしいほどの“光の女性”であった」{(ドイツ女性のクララという名は光や輝きを意味する)

以上、吉田秀和「ブラームス」河出文庫2019年(原著は1974年)より。

4.各曲の補足解説 

(1)メンデルスゾーン:序曲「リュイ・ブラース」 
 

 「リュイ・ブラース」というカタカナ表記だが、原語はフランス語“Ruy Blas”。わが国では、戯曲としては「リュイ・ブラース」、音楽では「ルイ・ブラス」と表記するのが主流であるが、ここでは言語の発音に近い前者を選択した。特に深いこだわりがあるわけではない。

 人気曲ひしめくメンデルスゾーンの中ではマイナーな曲だが、昨年亡くなった大指揮者の小澤征爾さんが、その輝かしいキャリアの端緒となったフランスのブザンソンコンクール(1958年)に参加した際、第一次予選の課題曲だったのがこの「リュイ・ブラース」である。これまた小澤征爾さんのベストセラー「ボクの音楽武者修行」(1962年、筆者の手元にあるのは1980年新潮文庫版)にそのことが書かれている。大変興味深かったので、以下その部分を引く。
 

「54名が応募した。日本人はぼくだけだ。だいたい日本人で応募したのはぼくが初めてだろう。(略)心細くてしようがない。外国人の応募者にまじって、言葉のよく通じないぼくが孤軍奮闘しようというのだから。(略)やがてぼくの番が来た。曲目はメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲。それを自分の好みの練習でオーケストラに仕込むのだ。(略)よし、五体でぶつかってやれと。これが通じず落選したらしかたがない。(略)審査員やオーケストラの連中は、ぼくの敢闘精神に驚いたらしい。お客ばかりでなくオーケストラの連中からもいっせいに「ブラボー!」という喝采が上がった。嬉しかった。とてつもなく嬉しかった」

(新潮文庫版、pp52-53)
 

 因みに、原作者ユーゴーの出身地はブザンソンである。

(2)ドヴォルザーク:交響詩「英雄の歌」 
 

 ドヴォルザークが残した夥しい管弦楽曲のうち、圧倒的に人気があるのが二つの「スラヴ舞曲集」である。これはブラームスの「ハンガリー舞曲集」がヒット作になったことから、出版社の要望によって作曲され、これまたヒットしたので8年後に第二集も作曲されたという経緯がある。その他にも序曲「謝肉祭」を始め、数多くの曲が存在するが、その中でも「英雄の歌」は地味である。巨匠ドヴォルザークが晩年に到達した円熟の極み、と銘打ちたいところだが。

 なお当楽団は、第21回演奏会(1999年)でも「英雄の歌」を採り上げている。27年も前とは言え、こういったマイナーな曲に再び取り組むのは、よっぽどこの曲への思い入れがあればこそ、と理解していただければ幸いである。

(3)ブラームス:交響曲第1番 

 本編でも触れた作曲の経緯について、多少補足する。19世紀音楽界の主流の地位にあったドイツだが、ベートーヴェンの燦然と輝く九つの交響曲以降は、これを強烈に意識せざるを得ず、逆に後代の作曲家にとって足枷になる。第九の初演が1824年、その後はシューベルト(1820年代)、メンデルスゾーン(30~40年代)、シューマン(40年代)がいくつかの交響曲を世に送り出したものの、その系譜は次第に途絶えてきた。一方でドイツの外では、ドヴォルザークやチャイコフスキーが1860年代に入って交響曲を発表し始めていた。そのような状況で、ブラームスの師匠たるシューマンや出版社からも大きな期待(あるいはプレッシャー)を掛けられながら、ようやく1876年に発表できたのがこの曲であった。


 世が待ち侘びた交響曲ではあったが、そのインパクトはなかなか微妙であったようだ。専門家からは「これはベートーヴェンの第10交響曲だ」と絶賛されもしたが、一般聴衆が熱狂的に受け入れたわけではなかった。といっても、現代に残されたクラシック音楽のレパートリーの中でも、初演時から人気を誇った曲はそう多くはなく、そこはポピュラー系の音楽とは大きく異なるところだ。すでにブラームスは、当時のバイエルン王国(首都はミュンヘン)国王から叙勲を受ける等社会的地位も高まり、その名声とともに交響曲としての評価も次第に定着していったというのが、実情のようだ。現在では、言うまでもなく19世紀の最も優れた交響曲の一つとされ、我々のようなアマチュアオケにおいても人気曲ベスト10に必ず入る曲である。

                                

以上 (文責 冨岡洋三)

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